生死を超えて 2018 12 16
まだ若いと思っていても、肉体は着実に衰えている。
私は、ある時、居間で、
背もたれのない長椅子に座っていたところ、
突然、後ろへ転倒して、後頭部を強打してしまいました。
運良く、新聞や雑誌を散らかしてあったので、
それがクッションになって無事でした。
背もたれのない長椅子は、意外にも危険かもしれません。
あの時は、深く腰掛けていて、
お尻の一部が、長椅子から、はみ出していて、
上半身の体重の方向が、はみ出しているお尻の方向に向かい、
バランスが取れなくなり、後ろへ転倒したものと考えられます。
思い出してみれば、中学生の時も、
野球のベンチに座っていて、そんなことになったかもしれません。
そういうわけで、公園のベンチには、
必ず、背もたれがあるのかもしれません。
このような話を昔の友人にすると驚くかもしれません。
私は、20代の頃、よく友人と登山をしていたのです。
中央アルプスは、夏は初心者向けですが、
晩秋になると、登山道は、一部凍結していて、
さらに吹雪になることが多く、危険な状態ですが、
友人はベテラン登山家、私は何度も登っていて地形は暗記していました。
一眼レフカメラより大型のペンタックス6x7カメラで撮影した、
スライドフィルムの写真は、限りなく美しく、
透明感が目に刺さるような晩秋でした。
そんな私が、自宅で椅子から転倒して怪我をしたとなると、
昔の友人は、ひたすら驚くでしょう。
しかし、まだ若いと思っていても、着実に肉体は衰えているものです。
たとえば、「まだ渡れる」と思って、道路を横断しても、
途中で車がやってきてしまう。
そんな状況が増えてくるのは、誰でも経験することですが、
本人に知らせることなく、肉体は勝手に衰えていくことがつらいものです。
仏教の教えに、「生老病死」という「四苦」があります。
生まれてくる苦しみ。
老いていく苦しみ。
病の苦しみ。
死ぬ苦しみ。
このような苦しみは、誰もが避けたいと思っていても、
必ず、誰もが経験することです。
先進国に生まれると、
「生まれてくる苦しみ」には実感がないでしょうが、
発展途上国に生まれると、「飢え」との闘いになります。
あるいは、灼熱の大地との闘いとなります。
このような苦しみは、肉体に起因する苦しみです。
仏教では、釈迦が「四諦八正道」を説きました。
「四諦八正道」とは、
長い人生を生きていくうえで、
「四苦八苦」(苦諦)という人生の苦しみを滅することや、
単に苦しみから逃れるのではなく、
八つの正しい道を生きることで、
苦しみは消えると説いたのです。
「正見」(正しく見る)
「正思」(正しく思う)
「正語」(正しく語る)
「正行」(正しい行い)
「正命」(正しく生きる)
「正精進」(正しく修行する)
「正念」(正しく念ずる)
「正定」(正しく精神統一(瞑想)をする)
「なんと八つもあるのか」と思ったでしょうが、
しかし、2500年前のインドでは、
「八つの正しい道」を熱心に聞く人々がいたのです。
あれから2500年たって、我々は進歩しているのか。
現代人にとっては、最初の「正見」すら難しいでしょう。
四つの桜 2003 4 5
桜は、春が来たことを告げ知らせる。
しかし、桜には四つある。
「天国の桜」
その心、天国ならば、桜は「天国の桜」に見える。
「成功の桜」
この春の成功者は、桜は「成功の桜」に見える。
「失意の桜」
この春、失意のなかにある者は、桜は「失意の桜」に見える。
「子供の桜」
子供から見れば、木に花が咲いている。
しかし、桜は桜である。
人間がどう思うと、桜は春を告げる仕事をしている。